2021年月日()22時~ 【あの日、偶然そこにいて】が放送されます。
番組では歴史的瞬間や時代を象徴する「あの日」の映像に注目。そこに偶然立ち会い、映り込んだ人々は、その後どんな人生を歩んだのか徹底捜索しその後をたどります。
今回、その中で紹介されるマクドナルド日本1号店の元店長「山迫毅」さんが気になったので、開店当時の秘話をプロフィールと合わせて調べてみました!
あの日、偶然そこにいてに登場!マクドナルド日本1号店の元店長「山迫毅」のプロフィール
名前:山迫毅
年齢:現在77歳or78歳
初めてハンバーガーと出会ったのは中学生のころ。米軍の淵野辺キャンプで開催された卓球大会に、山ほどハンバーガーやコーラが用意されており、その猛烈な美味しさに驚いたという。
その後、社会人となり、見聞を広めようと海外遊学のために勤めていた自動車メーカー「トヨタ自動車」を退職、ロサンゼルスに渡り、マクドナルドと出会う。
2年ほどで帰国したが、やりたいことが見つからなかった折に新聞で「マクドナルドの店長候補募集」の求人広告を見つけ即応募。
応募者は1000人ほどで、一流企業に勤める現役バリバリの男性ばかりの中で、本場のマクドナルドを知っていたこともあり店長候補の10人に選ばれた。
オープンの1ヵ月前に入社し、日本マクドナルドの株主だった第一屋製パンの工場内に設けられたモデルショップで、本社のマニュアルに基づいて調理法や接客を仕込まれた。
1971(昭和46)年7月20日、「日本マクドナルド」の1号店が東京の銀座三越店内に開店、店長となる。
マックの1号店はテイクアウト専門でハンバーガー1個が80円。ここから米国生まれのファストフードが身近なものとなっていく。
記念すべき1号店は三越との契約が切れる1984年11月に閉店。
定年までマクドナルドに勤務。
歴史的な日本1号店の店長を勤め上げた山迫毅さん、すごいバイタリティに驚くと共に、開店当時の様子が気になりますね!
あの日、偶然そこにいてに登場!マクドナルド日本1号店の元店長「山迫毅」の開店当時の秘話とは?
華々しく開店したマクドナルド第1号店はじつは開店直後は閑古鳥が鳴いていた。
店はわずか45㎡のテイクアウト専門店で路上で立ったまま食べるか、家に持ち帰るしかなかった。
当初、お客さんは外国人ばかり。中にはプロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが来て、ビッグマックを何個もたいらげたりする一方、わずかに来店する日本人のお客さんは、公衆の面前でものを食べることは下品とされていた当時、銀座通りに背を向けて、コソコソ隠れるようにして食べていた。
しかし開店後の週末、奇跡が起きる。
偶然来日していたアメリカのボーイスカウトたちが慣れ親しんだMマークを見つけて、店に押し寄せてきた。
彼らは歩行者天国を歩きながら、あるいは路上に座り込んで、コーラを片手にハンバーガーにかじりついた。
その姿を見た日本の若者たちが、「ああやって食べるのか。かっこいいな」と飛びついた。
あっという間に行列になり、その日のお客さんの数は、なんと1万人。
ところが、行儀が悪いという見方も強く。実際、周囲の店主からも「立ち食いなんて見苦しい。なぜそんな下品なことを天下の銀座で許すのか」という苦情もあった。
三越店内で食べ歩く若者もいたので、三越の従業員からも白い目で見られた。
そこで毎日午後3時に、ご挨拶がてら三越の食料品部の部長さんと銀座四丁目交番に、アップルパイとコーラを差し入れするようにした。
さらに歩行者天国にゴミ箱を設置。「クリーンパトロール」として専用の清掃員を20名採用していた。
店舗スタッフは店長裁量で山迫さんが採用。
採用したは慶應、上智、青山学院、東洋英和、アメリカ人の留学生も含め、みんな女子大生。
募集したところ、200名ほどの応募があり、70~80名を採用。
当時、都内のアルバイトの平均時給は180円の中、マクドナルドは220円という時給も破格だったので、求人で困ることはなかったそう。
山迫毅さんの1番の思い出の味はフィレオフィッシュ、いまだに無性に食べたくなるそう。
当時、日本ではまだタルタルソースは馴染みのないものだった。一口舐めるとピリッとした味が広がって、本当に美味しかったと語っていました。
マクドナルド日本1号店の元店長「山迫毅」があの日、偶然そこにいてに登場!
番組では歴史的瞬間や時代を象徴する「あの日」の映像に注目。そこに偶然立ち会い、映り込んだ人々は、その後どんな人生を歩んだのか徹底捜索しその後をたどります。
今回、その中で紹介されるマクドナルド日本1号店の元店長「山迫毅」さんがどんな風に登場するのか楽しみですね!
最後までご覧いただきましてありがとうございます^^